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二番煎じで何が悪い?

今まで悶々としてた話を一つ。


「誰が書いたから二番煎じだ」なんて文章をどっかしらで見掛けたんだけど、それ言ったら、その文句である“誰が書いたから二番煎じだ”という批判文句も誰かの二番煎じだよねーキャハハ。とかそんな幼稚な事言いたいわけでなく、こないだブクマでコメントつけた時に突っ込まれたのだが、「他人から言われるのと自分で認識したのは大きく違う」この言葉自体を認識→文章として形成した事に置き換えても同じ事で、「他人が言った事と、自分で文章として形成した事は大きく違う」わけで。


何が大きく違うかというとその人そのものの持つ背景が違うし、大筋に同じ事言ってても細かく言うと違う事なんてざらにある。結局、とか、要するに、とかで要点だけPick Upすればいいだけの戯言なんて星の数程あるし、この日記に書いている殆どがその類であると思っている。こんな文章で考え左右されるな。ほんとに。


ただ、他人がどんな事書いていようがそれは己の言葉ではない。己の言葉じゃ無いと言う事は本当に自身が言いたい事とは言えないのではないだろうか。誰かの言葉にのっかかってぼんやりしているだけならそれでもいいんだろうけど、誰かの言葉が無いと表現出来ないなんてなんか虚しく思える。これはあくまでも私の考え。ま、ここで「誰かの言葉に乗っかって〜」ってそのエントリを読んで、何らかの意見を持ってるにも係わらず、殆ど後回しにしてる自分への反省点。


なので、思いついたら書き出してみるといいんだよね。何言われてもそれが「自分」なんだから。意見の相違なんてざらにある。ざらにあるけど、自分には無い視点と見て謙虚に受け取ると何か次に開けるんじゃないかとも思っている。何か表現する事、動く事で開ける道があるはず。独創力を身につける、というか独創力を育てるにはそれがいいんじゃないかな。


ちなみにどれだけ悶々していたかというと、先月末あたりから。爆笑問題vs京大というNHKの番組見た時に感じた物も一部含まれてる。それからDocSeriさんのエントリか。


コロンブスの卵という言葉もあるが、確かに初めにその言葉を紡いだ、その意見に行き着いた人はすばらしいと思う。それを踏み台にして新しい意見に行き着ければいい話で、ここまで書いた文も多分誰か過去に同じ考えに行き着いた人が多数いたはず。でもこんな冗長に読みにくくくだらない文章に仕上げたのは私しかいないもんと思ってる。粗悪で劣悪な愚痴的なもんをここまで読んでいただいてありがとうございます。